その男ゾルバ

DVDで「その男ゾルバ」1964年英・ギリシャ・米合作。
ネタばれしているので、注意です。

全部失くしても笑って肉食べてラムを飲む。そして踊るんだよ。
なんてなんて良い映画なんだろう。
イギリス人(半分ギリシャの血)作家の青年バジルが父の残した土地があるクレタ島に向かう船着き場でギリシャ人のゾルバに出会い、二人は雇用契約を結ぶ。上品な作家青年と粗野なゾルバ、これは友情の物語。


ゾルバは嬉しい時も悲しい時も、感情が爆発しそうになると踊りだします。
言葉にならない感情が押し寄せて居ても立っても居られなくなる、心踊る瞬間や、痛みに耐えられず、もう走りだしたりしたくなる瞬間ってあると思う。人の心は感情の全部を受け止められる程、実はそんなに強靭でもないかもしれない。だから、踊ったり歌ったり描いたりする。一番人の根っこにある、身体を揺さぶるという事。ギリシャ人のゾルバは踊る。

最終的にゾルバとバジルは違う道を行く。
忘れないでくれ。あんたが大好きだよ。ってゾルバが言う。
二人はもう会えない事を知っている。私たちも経験的に知っている事で、どんなに相性がよく居心地がよくてもその関係は何かに携わる一時のもので、それから離れてしまえば話題も無くなり、一緒にいる意味が薄れ、結局は離れ離れになって行く。
その関係が互いにとって濃いものであるほど、また身分や立場が違うほどかつての関係性からは遠ざかる。
けれど、その人が好きな事には変わりはないし、過ごした時間には変わりが無い。頂きものみたいに大事にして、思い出す時はまた温かい気持ちが返って来て、そうやって、繰り返しながら生活は続く。
だから最初に踊りを嫌っていたバジルは最後に、踊りを教えてくれないか。と、ゾルバとともに浜辺で踊る。
波のように緩やかに始まり、気持は高徐々にまり次第に強く足を鳴らす。二人は満面の笑みで、今生きている時間を楽しんでいる。そういうの、良いなぁと思う。

イル・ポスティーノ

DVDでイタリア映画「イル・ポスティーノ」。1950年代、共産主義の為チリから亡命した詩人と、彼が身を寄せたイタリア漁村の郵便配達青年の物語。
詩人は後にノーベル文学賞を受賞するパブロ・ネルーダ。どこまでが実話かは分かりません。

冒頭の白い漁村と海の景色から、私はすっかりこの映画が好きになって、島の青年の率直な事の清らかさや、詩は解釈を加えれば陳腐な物になってしまうと言う映画全体に流れる美意識に安心をもらいました。
詩人に漁師の網をどう形容するかと聞かれ、郵便配達員は父親の網を思って「悲しい」と表していた。


観終わって、天王洲アイルに海を見に行こうとしたけれど電話に捕まってしまって日が落ちた。残念。
結局、屋形船の屋台村でお船と河を見ながら一本だけ。
水のある景色はいいなぁ。
東京ららばい がいい感じに流れて来て、ない物ねだりの子守唄って歌詞に感心しました。

マスク展

庭園美術館マスク展行ってきました。

謳え、踊れ、驚異のハイブリッドたちよ―

が今展のコピー。展覧会HPによるハイブリッドの注釈より、以下。
「近年では機械やテクノロジー等 の分野で頻繁に転用されているが、元来は魂を宿す生物を表わす言葉や概念であった。」


アフリカやオセアニアの仮面、映像では1960年代70年代に撮影された仮面を付けた舞踏儀式が見られるんだけど、驚異のハイブリッドとしか言えないの分かる。
凄まじい身体能力による舞踏、打楽器のリズムで高まって行くトランス状態。
何でも照らして何でも映して、全部知った気になり始めた頃から、未知の暗がりへの畏怖が薄れ傲慢になり感覚は鈍って、見えない世界は御伽噺になった。

けれど確実に精霊は存在する。森も山も敵であり味方でもあったのに人が切り開いて自分の力で征服した気になってそこにいたモノたちの存在を忘れてしまった。
こんなんじゃ、本当にいつか人工知能に支配される日がきちゃうよ。と、思ったりしました。

マスクは他者(精霊、動物、神々)と自己を繋ぐ媒体だと説明にありました。マスクを用いる事で人も闇の中にあるモノと繋がる事ができる。
見えている、知られている世界なんて本当に全く、小さな小さな世界だから、驕るな、畏れを忘れるな。
と、心鷲掴みにされて興奮し放っしの午後でした。心地良く疲れました。
アールデコのお屋敷でプリミティブ。もう、ぜひぜひ。
アジアやアメリカ、ヨーロッパの仮面もあったんだけど、アフリカとオセアニアが圧倒的でした。

http://www.teien-art-museum.ne.jp/

うなぎ

今村昌平「うなぎ」をDVDで。間が気持ちいい作品でした。
妻殺しの男と自殺未遂の女が知らない土地に流れてきて、もう一度生き始める。

赤い色に象徴される女性の狂気と、どことなく漂う男性たちの幼児性がポイントになりながらも、それを囲む田舎町の人々は何も詮索せず善意と優しさがある、いい土地と人に描かれている。
そんな場所があれば良いのに。これはおとぎ話なんだと思う。間が人を癒す効能を持つこともあると、この映画を観て思いました。

赤い色は妻を何度も刺して出た血の色と、気の違えた母親が纏うカルメンの衣装と、お弁当を包む風呂敷の色。
ちょっと安直かもだけれど、愛も真心も紙一重なのかと、少し怖くてけれどそれくらいギリギリなものなのだとも思います。何事も安穏としたのがいいけれど。

ほんとうに、こんな場所があればいいのに。見方間違えているかもしれないけれど、物語に見られる善意に安らぎました。
重いのかと思って避けていたけれど、全然全然。人の情念を内包しながら淡々として温かく語られる映画です。

「ストーナー」

2014年12月31日にSNSに書いた感想を転載。
超絶ネタバレです。
以下。

ストーナー」の感想が書ききれない。
舞台は1910年、19歳のストーナーが入学し、1956年に亡くなるまでたち続けたミズーリ大学が主となります。
貧しい農家の一人息子ストーナーが農業を学ぶ為に入学した大学で文学と出会い以後彼の世界の全てになる教職の道に進む事から物語は始まる。
君は文学に恋をしたんだ。と彼の師は言う。非常に朴訥とした青年で、図書館と学校のみで満たされていたけれど、大人になり親友を得て職に就き一目惚れの相手と結婚し子供を持つ。
けれど親友の一人は戦死、結婚生活は新婚旅行から帰って来た時点で失敗だったと、順風満帆とは行かない。
その後も上がったり下がったり、職務上の諍いがあり、理不尽に引き裂かれた激しい恋もする。娘は鬱屈し、学生ながら妊娠し結婚する。
夫婦は愛し合わない。けれど、全てを捨ててどうするの。と、追い詰められた恋人同士は答えを出す。
人生は儘ならない。ただ良く生きたいだけでも、心から愛し合えた者同士でも、ただそれだけでは生きて行く理由になかなか足らない。
どうしても関わり合いや信念、何よりそこでするべき事があって、そこで生きて行く。そして別れたり離れたりしてそれぞれに生きていく。
理不尽を抱えて、不幸を抱えて、程々に生きて行く。
と、そんな風に終わると思ったら違うの。ストーナーが死に際に思う数々の思い出を読んで欲しい。

ストーナーは極端で潔癖で妄信的な奥さんとの新婚旅行での失敗以来、結婚が失敗だったとし、ずっと不幸な結婚生活をしていた。彼の家庭には一切幸せが無かった。
彼は自分の最期に人生を振り返り、不倫の恋をした彼女の名前を声に出して呼んだけれど、最期に付き添う奥さんの元で「イーディスをもっと愛していれば」と思うんだよ。イーディスが奥さん。若い恋は知識や経験がなく妻を理解出来なかったと、愛せなかった自分を悔いる。
この心に至るまで、私は成長できるだろうか。
因みに恋人は彼と同じ文学の世界に生きる教職者。
若い内だと、まだ狭い世間の中で外見の好ましさや若さから来る情熱で結婚に結びつく事も多々あるかと思う。
けれど成熟して自己を持ち以前より広い世界に生き始めると、以前とは違う視点での恋をしてしまう事がある。世界の共有、知識の共有、興味の共有。
けれど只中にいる身としては、「もっと早く出会えていたら。」と思ってしまう事でしょう。それは、その時だったからこそ出会えた相手なんだ。とストーナー読んで思った。
以前、私は「結婚なんて出会った者順、早いもの勝ち」なんて言っていたけど、全然違った。
暖かい幸せな家庭が欲しいなら、愛そうとしなきゃ。その愛し方が分から四苦八苦するんだけどね。
だから、暖かい家庭なんてなかなか難しいのかもしれない。それもだいたい平凡な事。
ストーナーは2度自分の人生に問いかける。「何を期待したんだ?」って。

また恋愛に終始したけれど、これはウィリアム・ストーナーの一生の物語。
人の一生を丁寧になぞる事は私たちが知る事のきっかけになる。
1965年にアメリカで刊行されたこの本は、一部の愛好家以外には名も知られず埋もれて行く筈だったが、フランスで翻訳された所一気にヨーロッパでベストセラーとなったそう。
アメリカ的ではない、地味で平凡過ぎる物語。けれどこんなに共感を持ちしっくり来る本は読んだ事がない。なんの違和感もなく、私はストーナーが愛しくて堪らなかった。全ての登場人物が確かにそこにいた事が描かれている。
ストーナー氏はこの本を私に教えてくれた人に似ている。

この本の白いカバーを外すと赤い装丁がされている理由を知ると、感激で身震いしちゃうよ。

はー長くなった。読んでくれた方いたらありがと!ネタバレめっちゃしてるけど、手にとって好ましければ是非!
http://www.amazon.co.jp/gp/aw/d/4861825008

岡山小旅行④

岡山4でこれで最後。これも3月6日。
ご飯の事。

写真のぶれぶれ具合に私の舞い上がり具合が伺えます。
なかなか席が取れない人気のおでん屋さんに開店1730の数分前に到着。
もう待っているお客さんがいた。寒い日だったから、温かいの嬉しかったなぁ。瓶ビールと熱燗。
お店を仕切るおばさんのお酒の注ぎ方が勢い良くプロフェッショナル。迷いなく一気に注ぐ。わたくしの人生もそうありたい。潔く止まれ。
整然と並ぶおでんが風情満載。とても美味しかった。きくらげのおでん、シメサバ、イカの刺身。

店内も時代がかっているのに清潔で無駄があまり無い。倉敷も美味しいお店はそうだったなぁ。そりゃ店によるだろうけれど、スッキリしていて潔いのかな、岡山県。焼き物のお里はいいなぁ。生活に器が自然に使われていて、何だかんだで文化意識が無意識に高い。と、思ったです。
同じ焼き物のお里でも、私の生まれの石川県とはまるで違う。男性的な土っぽい、生活感のある文化を感じました。

この後はお酒楽しんで楽しんで、潰れて昼にやっと起き上がって、わかめうどんで目を覚まして新幹線で帰京しました。

岡山いい所。

岡山小旅行③

岡山3。引き続き3月6日。
行って来ました日本第一熊野神社
倉敷の山の中にありました。熊野と語るように、社殿が熊野大社と同じ構造だそう。後で調べると、役小角の縁の神社だって。宇宙皇子やんか。ああ〜。

この神社、干支ごとに賽銭箱がありまして。ちゃんと辰の処にお参りしました。そう言えば尾道の山の上の千光寺にも干支ごとの像と賽銭箱があったなぁ。
此処のは木の札に墨で「辰」とか書いているだけで、それがまたいい。
素朴に神を祀る為にある神社でした。心が満ち満ち。

山も昼間はこうして客人や人を迎えてくれるけれど、夜になれば怖い山になるんだろうな。野性味だって活き活き息づいていた。

神社の前の道を車で緩々行きながら、ここは昔は参道できっと栄えていたんですよ。呉服屋や昔からの商店があるでしょ。
って、今はすっかり閑散としてしまった道すがら同行して下さった方が話してくれると、賑わう通りが返って来るみたいでワクワクとしました。