EUフィルムデーズ「マコンド」

EUフィルムデーズでオーストリア映画「マコンド」。
感動のあまり全体的にネタばれです。

父を戦争で亡くし、チェチェンからオーストリアに難民として入り、母と二人の妹を支える11歳の少年 ラマサンの物語。
語るべき問題が沢山出てくる。


母はドイツ語を話せるラマザンに頼りきり、妹たちの世話を任せ、彼を大人として頼り切る。息子が補導された際にも、彼は大人です。と言い切る。

ラマザンは早くに亡くなった父親の記憶がない。部屋に飾られた写真と剣、大人が語る「お父さんは立派な男だった」の言葉に理想の父を抱き、自分のアイデンティティとしている。
けれど、母とその友人たちとの会話を立ち聞きして父と母は誘拐婚だった事を知る。
最近もこのチェチェンの慣習でもある誘拐婚について問題提起がされている。タイムリーな話。
母は父を愛していなかった、ラマサンが立ち聞きしている事に気づかずに、子供が産まれた事については、そういうものよ。と一蹴してしまう。

そして父の親友だというイサが現れる。イサは大人の男性で、頼りがいがあり、ラマサンも懐く。
けれど、その存在が父の存在を、ラマサンの立ち位置を脅かし始める。

ラマサンはずっと家族の為に大人の男としていなければいけなかった。自分を律して、強い顔をして生きて来た。でも父を愛さなかった母は誠実で優しいイサを愛するかもしれない。イサは大きくて、強くて、ラマサンや母親の出来ない事をなんなくこなしてしまう。
自分の立ち位置やアイデンティティを失くす事は子供大人に関わらず恐ろしい事だと思う。けれど、子供はそこしかしらない。役を降りる、と言う事をまだしらない。
両親が仲良く愛し合って、自分は望まれた子供だと無条件に信じたい。
大人になって色々経験した後でも、それは同じだろうと思う。
けれど、もしそうでなかった時、許す事や諦めるという選択肢を大人は選ぶことができる。仕方ないよね。って。

目の前にどんどん現れる現実に、子供はどう立ち向かえばいいんだろう。
ラマサンは、様々な苛立ちからイサに復讐をする。イサは何一つ悪い事をしていないけれど、誰も責められないラマサンはイサに甘えるしかなかった。

裏切られたあと、イサはラマサンに声をかけない。
それでもラマサンを責めないイサの態度に自分のしたことを理解して、後悔し、自分が子供なのだとはっきりと自覚する。イサがラマサンが子供でいていいと教えてくれたのだと思う。
そして、今までの自分に決別する。イサがくれた父の形見の腕時計を木の根元に埋めるという事で、父親の役目から自分を解放する。
そしてラマサンは、悪い事をしてしまったイサに対してどうすればいいのか分からないんだろうな。ただ、傍にいって、笑いかけてもくれない、話しかけてもくれないイサの隣に座ってラジオを直すイサの手伝いを無言でする。
二人は無言のまま隣同士に座って、ラジオを直す。そうして時間は穏やかに流れる。
私はこのラストに、なんだか泣けて泣けて、すっかり感動してしまいました。

子供も大人も、思いを受け止めてくれるものが欲しい。誰かだったり、何かする事だったり。
何かあった時、大事な人ならその人に対して思い込んだり、決めつけたり、責めたり、そんな事はしなくてもいい。そばにいて、咎めない事で答えは出ているのだから、事の理由はそれぞれにあるのだから、お互いの気持ちを大切にして、そばにいる事を許し合いたい。心が穏やかになるのを待てばいい。今すぐの解決を望むのは自分の為にすぎない。
もし話したければ話せばいい、それに対して誠実に今出せる時点での答えを出せばいい。
国が違う文化が違うのと同様に、人はそれぞれ違うのだから、話し合う事で同調したり許し合えたりできるだなんて奢りだと、この映画を観て思いました。
大切な人の事は、その人が納得いくように、そっとしていればいいんだと思う。

ヨーロッパ映画って子供に焦点が当てられやすい。子供がただ無邪気でいる事を許されない、社会背景が多分にある。
子供が主役でも大人に向けての祈りが込められた映画が多いように思います